藤倉 稔(ふじくら みのる)さん: 北海道の小学校・中学校で計18年間の教員経験を持つ。現在は小学校勤務。不登校問題に高い関心を持ちつつも、現場での対応の難しさに葛藤する。自身の子どもも不登校を経験。NPO法人School Voice Project理事。
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文部科学省の調査によると、小中学校における不登校児童生徒数は年々増加し、2024年度には35万人に達しました。
なぜ、これほどまでに「学校に行けない」「学校に行かない」子どもたちが増えているのでしょうか。そして、現場の大人たちは何に苦しみ、どうすれば状況を変えられるのでしょうか。
今回は、教員、支援者、保護者という立場の異なる3名が集まり、それぞれの視点から見えてくる「不登校のリアル」と、これからの学校のあり方について語りました。

藤倉 稔(ふじくら みのる)さん: 北海道の小学校・中学校で計18年間の教員経験を持つ。現在は小学校勤務。不登校問題に高い関心を持ちつつも、現場での対応の難しさに葛藤する。自身の子どもも不登校を経験。NPO法人School Voice Project理事。

齋藤 暁生(さいとう あきお)さん: 元中高教員。現在は独立し、オンラインフリースクールの立ち上げや、不登校の子ども向けのサービス「ユルタ」などを展開。NPO法人School Voice Project理事。WEBメディア「メガホン」ではシステム管理を担当しており、不登校解説記事の編集にも携わった。

梁井 利恵子(やない りえこ)さん: 3人の子どもを育て上げた保護者であり、そのうち1人が不登校を経験。現在は「親カフェ」を主催し保護者が安心安全におしゃべりできる場づくりをする傍ら、在住市のこどもの居場所ネットワーク事業の地域コーディネーターをしている。
不登校の児童生徒数が過去最多を更新し続ける中、皆さんはそれぞれの現場で、今の子どもたちの状況をどう見ていますか?
藤倉: 正直なところ、うちの子が学校に行けなくなったときもそうでしたが、「理由がよく分からない」というのが実感です。本人も分かっていないし、親も分からない。何か発達的な要因があるかもしれないし、家庭に不安要素があって元気がなくなっているかもしれない。本人の中でも整理できていないストレスが蓄積しているように感じます。
でも、学校側はそこまで深く踏み込めず、わかってあげられないもどかしさがあります。軽々しく「学校においで」とは言ってはいけない状況があるにもかかわらず、立場上そう言ってしまう……。そこに難しさを感じています。
梁井: 子どもって、良い意味でも悪い意味でも、社会を映し出す鏡のような存在ですよね。日本の社会全体が不穏だったり、歪みが出ていたりすると、子どもたちはそれを敏感に感じ取って、自分の体や心を使って警告を鳴らしているんじゃないかと思います。
齋藤:すごく分かります。社会の歪みのしわ寄せが、一番弱い立場である子どもたちに来てしまっている。僕は、数字の面からも今の状況を危惧しています。メガホンの不登校記事でも取り上げたんですが、公表されている不登校児童生徒の数以外に、実は“隠れ不登校”がたくさんいると思っています。
文科省は年間30日以上欠席した子どもを理由別に集計しているんですが、このうち“病気”を理由にした長期欠席の子が、ここ数年で数万人単位で増えているんです。病気の子がそんなに急増するはずがないので、実態は不登校に近い子が含まれているはずです。
さらに、学校には行っているけれど「ちょっと行きたくないな」と感じるときがある子や、年間30日以上は欠席してないけれど休みがちな子を含めると、裾野はかなり広い。僕の肌感覚では、100万人くらいの子が何かしらの「学校への行きづらさ」を抱えているのではないかと思っています。
※ 文部科学省の調査では、児童生徒が「病気」「経済的理由」以外の要因によって年間30日以上登校できなかった場合を不登校として集計しています。
藤倉: 学校に来ている子たちだって、本当に学校を楽しんでいるかというと疑問です。「学校に来ているから大丈夫」とも言えないんですよね。
以前担任していたクラスで、子どもたちに学校評価のアンケートをとったことがありました。「学校は楽しいですか?」という質問に対して、勉強もできて活発で外遊びも大好きな子が、「うーん、中休みと昼休みがあるから、楽しいことにしておこうかな」と言っていたんです。
僕ら教員から見れば「学校生活を満喫している」と思える子でさえ、楽しみは休み時間だけ。その出来事があって、楽しみを感じずに学校生活を送っている子は多いのではないかと気付かされました。
梁井: 昔、息子が学校に行けなくなったとき、たまに登校する日があったんです。すると先生に、「来ると元気なんですよね」って言われたことがありました。その言葉はつらかったですね。
めちゃくちゃ元気に見えるんですよ、表面上は。でも、それは無理しているだけで、心から楽しんでいるわけじゃない。それなのに「元気なんだから、来ればいいじゃん」と思われてしまうんです。
齋藤: 先生たちが「学校は大事だよ」「勉強は大事だよ」と言い過ぎていることも、子どもたちを追い詰める一因かもしれません。もちろん、先生としての立場は分かるんですが、社会全体が「もっと頑張れ」「学校に行くのが正しい」というメッセージを出しすぎて、子どもたちが無理をしてしまっているように思います。
梁井: 本当は「学校が大事」なんじゃなくて、「その子が幸せに生きていくこと」が大事なはずですよね。学校はそのための手段の一つでしかないのに、いつの間にか逆転してしまっている。
藤倉: 僕自身の話をすると、子どもの頃はよく「死にたい」とか「いなくなりたい」と考えていました。でも、当時はSNSもなかったから、比較対象が周りの友達くらいしかいなかった。
今は違いますよね。スマホを開けば、世界中のキラキラした幸せそうな人たちが目に入ってくる。僕の子ども時代でさえつらかったのに、今の情報量で同じように悩んでいたら、本当に追い詰められてしまってもおかしくないなと思います。
齋藤: ネット上のやり取りも影響していますよね。SNSで「学校に行きたくない」と呟くと、見ず知らずの大人から「学校は行ったほうがいい」とコメントがついたりする。
不登校の子だけでなく、その予備軍の子たちがそれを見て、「今はつらいけど、やっぱり無理してでも行かなきゃいけないのかな」と自分を追い込んでパンクしてしまうケースも見てきました。大人の何気ない正論が、ネットを通じて子どもたちの首を絞めている側面もあるのかもしれません。
今、子どもたちが苦しんでいる一方で、学校現場の先生たちもまた、かつてないほど疲弊しているように見えます。
藤倉: そうですね。まず、教員が圧倒的に足りていません。不登校対応にかけられるリソースがほとんどないのが現状です。
本当は、子どもとゆっくり話して関係をつくりたいんです。中学校では空き時間に「公園に行って話そうか」なんてこともできましたが、小学校では担任がずっと教室にいなければならないので、物理的に無理なんです。子どものつらさを聞いてあげたいのに、その時間も余裕もなくて、結局「学校に来ないから、何もできない」で終わってしまう。そのもどかしさは常にあります。
齋藤: 先生方の余裕のなさが、職員室の空気を殺伐とさせている側面もありますよね。
藤倉: それはすごく感じます。不登校が増えているという現状に対し「学校に来ないのは、すぐに休ませる家庭の問題だ」など、親や子どものせいにしてしまう教員の声がSNSでも上がっていますよね。不登校の裏には「“昭和”の学校と“令和”の子どもたちのミスマッチ」というような構造的な問題があると思うんですが、そこに目を向けるゆとりすらない。
体罰ができなくなった分、言葉による暴力や、冷たい対応が増えているようにも感じます。僕自身も、忙殺される中で、のんびりしている子に対してきつい言い方をしてしまったりして反省することがあります。
齋藤: 評価や提出物のプレッシャーも大きいですよね。先生たちも本当は子どもに無理をさせたくないのに、管理職やシステム上の要請で「宿題はやらせろ」「テストは受けさせろ」と言わなきゃいけない。
藤倉: 今、デジタル化が進んでいて、タブレット上で「誰がテストを受けていないか」が一目瞭然なんですよ。教育委員会や管理職からチェックが入るから、久しぶりに登校した子に、たまったテストを5枚まとめてやらせて帰らせる、なんてことも起きてしまう。せっかく来たのに、ただ消耗させて帰らせてしまうんです。
梁井: 先生たちも本当に大変なんですよね。だから「学校が悪い」「先生が悪い」と責めても解決しない。
ただ、子どもが不登校になってしまうと、親としては、地域の情報やセーフティネットから一気に孤立してしまう恐怖があるんです 。だからこそ、お互いに苦しい中でどうつながり続けるか、大人が一度立ち止まって話し合う必要があると感じます。
先生も親も、そして子どもも苦しい。この袋小路を抜けるためには、どんな変化が必要なのでしょうか。
藤倉: 自分自身の反省でもあるんですが、これまで僕は真面目すぎたなと思っていて。「学校に来るなら朝から来るべきだ」と、どこかで求めてしまっていました。
でも、もっと柔軟でいいはずなんです。「給食だけ食べに来る」「休み時間だけ遊びに来る」とか。僕らが勝手につくった“登校のハードル”を下げて、「そういう登校もOKだよね」と認めてあげる。最近では「マイスタイル登校」という言葉もありますが、まさにそうやって個々のスタイルを尊重できれば、もっと救われる子は増える気がします。
梁井: まさにそうだと思います。イベントの名前なんかを考えるときにも思うんですが、「不登校」と言うと、どうしても否定のニュアンスが入ってしまうし、言葉として強すぎる。でも、検索されるのはその言葉だったりするから難しいんです(苦笑)。
齋藤: 本当は「学校に行くか、行かないか」という「0か100か」の二択ではないはずなんですよね。「最近、ちょっと疲れているから週2回にする」とか、「今日は元気だから朝から行く」とか、もっとグラデーションがあっていいと思っています。
「学校はもっと柔軟でいい」ということに関しては、「休んだ子の学びのフォローが大変で教員の負担が増えるのでは?」といった意見もあると思います。その点についてどう思いますか?
齋藤: 教員時代に私が自由進度形式で授業を行っていたときは、授業の受け方を生徒が選べる形だったため、教員側の負担を高めることなく授業に柔軟性を持たせられていたと思っています。中には、部活の大会で公欠になる生徒もいれば、体調や気分の波で「昨日は集中できなかった」という生徒もいました。けれど、どんな理由であれ、それぞれが自分のペースで遅れを取り戻したり、先へ進めたりしていました。
もちろん、それ以外でもさまざまな工夫の余地があると思っているので、先生たちや学校の工夫で「柔軟さ」と「負担減」の両立を目指していけるといいですよね。
梁井: 大人の社会では「フレックスタイム制」や「テレワーク」が広がってきていますよね。大人の働き方はどんどん多様化して、在宅勤務も選べるようになっているのに、学校だけが「8時から夕方まで全員集合」というスタイルが変わっていないように思います。
齋藤: そうなんです。社会で必要な能力も変わってきていて、「毎日決まった時間に決まった場所に行く能力」だけが全てではなくなっています。
だからこそ、完全にパンクして長期の不登校やひきこもりになる前に、「カジュアルに休む」という選択肢が必要なんです。僕が今進めている「ユルタ」というサービスもそうなんですが、「今日は学校を休んでこっちに行こう」と気軽に選べる場所をつくりたいと思っています。
現在は不登校の子どもの学習支援を通じて自己肯定感を高めたり、子どもが学校を“安心して休める”環境をつくっているんですが、将来的にはもっと幅広い子どもに向けたサービスにして、“学校に行きたくない日にふらっと使えて心が休まる居場所”をつくりたいと思っています。

最後に、これからの学校のあり方に対する思いや願いを聞かせてください。
藤倉: 僕は、もっと子どもたち一人ひとりの状態に合わせたアプローチができたらと思っています。今は「不登校」とひとくくりにして対応していますが、先生に会うのもつらい子もいれば、学校行事だけは参加したい子もいる。それなのに、同じ対応をしてしまっている気がするんです。
そして何より、その細かな対応をするための「暇がない」という現実があります。子どものことを見てあげたいのに、見る余裕がない。話したいのに、教科の指導やテストに追われて話す余裕もない。それでは、子どもが不登校になっても状況を理解できず、対応が遅れてしまったり、保護者とのやり取りが遠くなったりしてしまう。こういう学校現場の構造が変わっていくことを願っています。
梁井: 難しいことだと思いますが、私も、やはり学校というシステム全体の変革が必要だと感じています。先生たちがもう少し増えるとか、余裕ができるようになるとか。いろんなカリキュラムも含めて、全体が大きく変わるといい。
同時に、学校とそれ以外との間の垣根が低くなるといいなと思います。学校外の人間からすると、学校の先生や関係者の方とコミュニケーションを取るハードルが高すぎるなと感じるので、もう少し柔軟な方法はないのかなと。そして、いろんな立場の大人たちが、今の子どもたちがしんどいことや、自分たち自身もしんどいことを、いい意味で“ざわざわ“対話できるといいなと思っています。
齋藤: 大前提として、学校も家庭も、すべては子どもが幸せに生きるための手段でしかない、というところは絶対に忘れてはいけないと思っています。この根本に立ち返り、大人たちが「学校に行くことが絶対じゃないんだ」という意識を持った上で、苦しみすぎずに、気楽に支え合える社会になるといい。
不登校が35万人を超える状況は、もはやクラスの中の「特殊な子」の問題ではなく、社会全体のシステムをアップデートする時期に来ているということです。この認識を、広く持っていくことが重要だと思います。
保育士・放課後児童支援員として放課後児童クラブに長年勤務していた「きしもとたかひろ」さん。
“子どもとの日常の関わり”をマンガとして発表し、X(Twitter)で多くの教育関係者から共感を集めてきました。
今回の記事では、日常のちょっとした場面から『「その子にとっていちばん良いこと」ってなんだろう?』ということについての公開対話会の様子を掲載いたします。
参加者の皆様からいただいたチャットでのご意見も交えつつ、当日の様子をお届けします。

きしもと たかひろさん(一般社団法人Rights of the Child)
保育士・放課後児童支援員として、放課後児童クラブに長年勤務。支援員および運営の主幹として、子どもの権利と主体性の尊重を主軸にした育成支援及び保護者支援を続けてきた。現在は子どもを取り巻く環境の課題解決のために一般社団法人Rights of the Child(ライツオブザチャイルド)を立ち上げ、現場や自治体等の支援や講演、資格研修講師等を行う。著書『怒りたくて怒ってるわけちゃうのになぁ〜子どもも大人もしんどくない子育て〜』『大人になってもできないことだらけです』(KADOKAWA)

金子さん (公立小学校教員)
非常勤講師を含めて15年ほど公立小学校、公立中学校に勤務。非常勤講師時代は児童クラブでのアルバイトもしていた。ミッション、ビジョンは(まだ)見つからず、子どもたちの姿をおもしろがりながら、小さな小さな探究サイクルを回している。

齋藤暁生さん(元学校教員)
二児の父。ITベンチャー企業、教育系NPO法人、公立中学・高校(教諭)、地方自治体教育委員会での勤務経験を経て、2022年4月に教育コンサルタントとして独立。『「学校に行きたくない」日のオンライン学習支援“ユルタ”』等の事業を展開しつつ、 「旅する教師」としての自身の教育実践や各種教育研究の成果をもとに教育機関向けサポート・アドバイス・研修等を提供している。 NPO法人 School Voice Project 理事。
当日いただいたチャットの内容を、記事中のふきだし内に記載しました。
きしもと この漫画を書いたきっかけは、私が「子どもを一人の人として大切にし、意見を言って自分で決められるようにしよう」「子どもは本来自由で、自ら育つ力がある」といった話をしていた時、友人から「そんなことを言って、もし子どもが将来誰かを刺したら、それは許せるのか」と言われたことでした。




多くの方が、「やりたくないことでも、できていた方がいいから頑張らせるのが教育の役割だ」と感じつつも、一方で「無理に頑張らせることが本当にいいのか」という葛藤を持っていると思います。「子どもの思いを尊重」と言っても、何でも自由ではなく、導きが必要ではないか。本当にその子の為になっているのか、と。
この考え方が間違っていると言いたいわけではなく、私たちが育ってきた根底には、ほっといたら楽な方に流れるんじゃないか、大人がちゃんと導いてあげなきゃいけない、子どもたちを守るためにはある程度のルールが必要だ、といった価値観もあるのだと思います。
そのため、チームで取り組む際には個々の価値観で進めると、ぶつかり合ってしまいます。そこで私が関わる学童では、「子どもの最善の利益」、つまり「その子にとって何が一番いいか」ということを指標にして、職員たちと話し合ってきました。これは、子どもの権利条約の4原則の一つでもあります。
子どもにとって「今」「これから」何が必要か、ということを見つめ、今もこれからも大切にしていきたいという思いで、この漫画を書きました。

金子 子どもの中には「頑張りたい」という子もいますよね。そういう子を後押しすることや、頑張りたいけど頑張れない子に対しては、どう考えれば良いでしょうか。もしかしたら私は、そこから逃げているのかもしれないと思うこともあって。
きしもと そうした疑問について、現場で話せること自体がとても大切だと思います。「やりたくないけど頑張らせてほしい」という子どもの気持ちに関して言うと、たとえば学童で、「集中できないから、そこで怖い顔して座ってて」と言われたことがあって(笑)
頑張らなきゃいけないという見通しを何となく持っているけれど、なかなか頑張れない。大人でも喫茶店に行くとか、自宅じゃ集中できないから出勤するとか色々な方法を持っていますが、子どもも自分で工夫を見つけ出す。それはその子の力だし、そういうやり取りができることがスタートなんじゃないかと思います。
齋藤 僕が高校の教員だった頃、生徒には「授業中に寝ても、基本は起こさないよ」と伝えていました。ただ、「起こしてほしい人は、あらかじめ伝えてくれれば起こすよ」とも伝えると、結構いるんです。「ちょっと今日、部活ですごく眠いけど、頑張りたいんで」とか言ってくる子。
きしもと 「今は頑張りたいけど頑張れないから、ちょっと頑張らせてほしい」という意思表示を尊重することが大事ですよね。金子さんは、頑張らせないことが将来、子どもの不利益につながるかもしれないと感じることはありますか。
金子 ある子から「私のことも他の人のことも あんまり叱ってくれなくて、不安になることがあります」と言われたことがあります。「なぜあの子を叱らないんだろう」という思いが強いのかな、と思ったのだけど、「自分のことも叱ってほしい」ということでした。
きしもと 私の体験談なのですが、友人に「サングラスを選びたいからついて来て」と言われて行って、全部似合っているので「むっちゃいいやん」ばかり言ってたら、「お前は全部いいって言うから信用ならん」と言われたことがあります(笑)。本心褒めてるんだけど、「ちゃんと基準みたいなものを示してほしい、全部受け止められたら意見がないのと同じじゃないか」ということなのかなと。
子どもからしたら、「本当は私にとって必要なことを、この先生は私に気を遣って言ってくれない」といった不安があるのかな。
金子 その子には「叱ることがあれば言うよ」と話しました。出会って最初の頃の出来事だったので、その後の私との関わりの中で、「この人は“叱る”のではない方法で伝えてきてるんだな」というのを、感じ取ってくれたら一番いいんですけれど。
きしもと 「叱るのではなく、伝える」っていいですね。例えば誰かを傷つけたり、危ないことをしたりするのはダメだけど、叱ったり、怒ったりということをせずに、別の方法で伝えようとしている。

当日は3人が語りたいテーマを持ち寄り、参加者の皆さんにもチャットで意見を聞きながら対話を進めていきました。
きしもと 一方で、叱られ慣れてる、指示され慣れてることが普通になってる子がいるという意見もありますが、学校でそう感じることはありますか。
金子 感じますね。あと「叱るのが愛情なんだよ」と、もしかしたら私もつい言ってしまったことがあるかもしれない。自分の子どもは結構叱ってしまうんです。
きしもと 愛情があるゆえに叱ってしまうのを、「ここまで叱っているのは、愛情があるからなんだよ」と言い換えてしまうのは、あるあるですよね。愛情があるからこそどうにか伝えたいけど、伝え方が難しい。
子どもはよく宿題を嫌がって、学童でも「こんなのやってられるか」と僕に言ってくるんです。そこで「担任の先生に言ってみたら?」と言うと、「言えるわけないやろ!」と。学校の先生が怖いのではなくて、「こんなものやってられるか」と言わないことが、まさに普通になっているのかなと思います。
テーマ③の「自分で決める」という大前提が、コミュニティの中では乏しいからこそ、普通にやるべきと受け止めてしまうし、「そんな宿題出すなよ」とも言えない。
齋藤 テーマ⑧の「同僚や保護者との考え方の違い」という部分に関してはどうでしょう。
きしもと 厳しくすることで子どもたちが真っ当な人間に育つという価値観もあって、そのすり合わせは簡単ではないですよね。学校の先生だと、担任間で同じ方向を向かないといけなかったり、保護者からも「もっと叱ってください」という声があったりするんでしょうか。
金子 そうですね。「うちの子が困らせているのはわかりますが、もっと頑張らせてください。やるのは当たり前でしょう」といったことは言われます。特に中学校は複数の先生でクラスを見るため、すり合わせが難しいです。
きしもと 学童でももっと頑張らせてほしいという声が出ることもあります。ただ、学童でサボっているように見えても、実は学校ではめっちゃ頑張っているのかもしれないことを生活の中で伝えていくことで、のんびりすることの価値も感じてもらえたりします。
チャットにこう書かれている方もいます。
自分たちの中では、価値観の違いはいろいろありますが、こどもに自分の気持ちを伝えるということを大切に保育をしています。
子どもに、あなたを大切にしようとしてて、こういう風にあなたの意見を聞こうとしているということを伝えていくだけで、保護者の方にも伝わる部分はある。価値観の浸透という前に、子どもにちゃんとそういうことを伝えていくこと、そういう関わりをしていくことは抑えておきたいですね。

金子 2学期を前にして、文科省からも「無理して学校に行かなくていいんだよ」というメッセージが各家庭に届けられる。学校の近くにいるきしもとさんから見た学校のしんどさや、そこからどう抜ければいいのかという部分を聞いてみたいです。
きしもと その点に関しては、とても反省することがあるんです。僕は子どもたちに、「しんどいなら無理していかなくていいんだよ」と伝えていますが、その言葉自体が「学校はしんどい場所だ」という前提を含んでしまっている。本当にしんどいと感じる子がいる一方で、学校にも相談できる大人や、環境を整えている先生方はたくさんいるのに。
齋藤 学校の仕組み自体、子どもにも大人にもしんどい仕組みになっている気がします。教員は接する必要のある人の数がとても多い職場だし、不登校支援の視点から見ていても、特にある特性を持ってる子にはしんどいんじゃないかな。
きしもと 私は以前に学童の職員とした「子どもたちは自分で楽しむ力を持っている。私たちはもっと楽しい場所にしようと色々取り組むけれど、見なければいけないのは楽しくなる前の段階なのではないか」という話から、「しんどくない」という言葉を大切にしています。
楽しくないという状態は感情で、権利自体は取りこぼされていない。一方で、しんどいという状態は、何かしらの権利が取りこぼされている。しんどいところをどう減らして充実させるかというよりは、どうしんどくない環境を整えていくかというところが、すごく大事だと感じるんです。しんどさをゼロにはできなくても、「この人なら相談できるかも」と思える大人の存在が、学校や学童の場においては非常に大きいと感じます。
私(保護者側)自身は学校大好きだったし、大人になっても好きな場所なのに、学校=しんどいのような世間の状況は、やっぱりとても切ないです。
「無理して行かなくていいよ」は大切なメッセージだとは思いますが、学校がそういう場所になってしまっている大元へのアプローチをもっとできたらいいのに、と思います…。
学校も教室も管理が強まれば強まるほどしんどいです。「できなければ、しなければいけない」の圧力がつらい。
金子 中学校で担任していた時にこちらを叱ってくれる子がいたんです。「あれはないよ」「あの子は今困ってるよ」と。
その存在は、すごく心強かった。知らないうちにそっぽを向く子ではない、というか。子どもからも叱ってもらえる関係性になれたとしたら、教員のしんどさは少し軽くなるのではないかと感じます。
きしもと 叱ってくれる子の存在は、すごく助かりますね。自分が支配的になってるのではないかという不安や、それに気づけない環境にしんどさがあるのかもしれません。
金子 「支配的」ということは、多くの責任をその人が持たなきゃいけないということ。クラスで何かがあったら、自分の責任。それってとても辛い。だから、ちゃんと言ってくれる存在が生徒の中にいることによって、権力的な部分は弱くなるかもしれないけれど、同時に責任や重圧も減ると思う。
きしもと 確かに支配的になりすぎてたら、トラブルは全て自分の責任になる。一方で、子どもたち主体で運営できるようになってきたら、肩の荷が下りる。でもそれは、子どもに責任をなすりつけるという意味ではなくて、何かが起きた時に、子どもたちの課題として子どもたちと取り組んでいけるという意味なんですよね。
子どもたちの意見が出た時の嬉しさ、「言ってくれた!じゃあ、一回それでやってみよう」と、たとえ失敗してもそこから反省するという対話を通じて、関係性が生まれるのだと思います。
そうそう、子ども参加は先生を楽にするんですよね。コミュニティが、人がたくさん乗っているおぼんみたいなイメージだとすると、おぼんを先生一人でつかんでるとひっくり返らないようにするのは大変だけど、子どもも一緒におぼんをもってくれてたら、そう簡単にはひっくり返らない。
自分の考え方・保育が、これまでの経験や関わってきた同僚の影響を受けていて、それを「呪縛」と捉えて共有してくれたスタッフがいました。「自分が支配的になっている」ということに気づける環境は大切。
楽をする」のが「手を抜く」というイメージをもっている先生が多い気もします。(そう思われてしまうのでは、という自分もいます)楽をする、というか、こちらの手が空く分、子どもを見守ったり楽しんだりすることにリソースを避ける感覚でいます。
齋藤 子どもの意見の尊重と、教員のしんどさの軽減は、繋がる問題なのかもしれません。
きしもと まさにその通りだと思います。子どもの権利条約が示す主体性とは、子どもが権利の主体、つまり一人の人として今を生きていて、意見を持っているということです。思っていることがあるし、言いたいこともあるし、様々な要素をその子は必要として持っている権利の主体。1人の人として今を生きていますよという主体性ですね。
僕も1回失敗したんですけど、意見というと、子ども会議しましょうというのが一番に出てくるんですよ。ただ、意見が言える場を設けるのも大事ではあるけれど、「あなたの意見聞きますから、この1時間で意見を出して」というのは、日常で意見を尊重されていない子どもには難しい。
子どもの権利条約に書かれている「意見」は、会議での「Voice(意見)」や「Opinion(見解)」だけでなく、“その子がどう感じているか、どう思っているか、どう見えているか”という「Views」を尊重することなんです。その子の感情や意思を、一人の人として尊重する日常のやり取りこそが、意見尊重と言えるわけです。
ひいては意見を言わなくても、あるいは言語化できていなくても、その子には1人の人として考えていること、感じていることがある。それが主体性だということなんですね。嫌そうな顔一つもしないとかでなく、嫌そうな顔をしてくれたりするもの、その子の主体的な意思の表明なんですよね。
僕自身、「私、そんな意見表明したくない、自分で決めたくない」と言われたことがあって、それも権利なんだなと気づきました。何かをするときに子どもが「え?」という表情を見せたら、以前の僕は「いや、決めたことだろう」と返してしまっていました。これでは、全然意見表明を尊重してないですよね。
「え?」という気持ちに対して「そっか、え?って気持ちなんだ。そうだよね」と、まず子どもの感情を認めることはできる。その上で、「僕はそんな顔をされたら頑張って準備したから嫌だな」「僕が傷つく」と、自分の主体性を伝える。大人の前でそんな顔をするな、ではなく、一人の人として感情を伝え合う。
嫌そうな表情をする表明があれば、後で「あの時しんどいことあった?」と聞くこともできる。そういう日常の小さな表情を拾い上げることが、子どもの権利を守ることにつながるのかなと思います。
齋藤 嫌そうな顔をするのが子どもの権利というか、嫌な時に嫌そうな顔ができるような場を作るというか。
テーマ③に書いたのですが、僕は教員時代に学び方や学ぶペースを自分で決めるという自己決定を意識して授業作りをしていました。学校って学ぶペースが早いことは認められますけど、ゆっくりペースや「今日はやりたくない気分なんだ」というところは、あまり尊重されない。でも、きしもとさんがおっしゃるように、日々の何かしらを承認されたり、尊重されたりしていないのに、意見を急に言えというのは難しい。学校の一番の日常は学習だと思うので、学習や授業時間における自己決定がもっと広がるといいと思っています。
きしもと 「学び方や学ぶペースを自分で決める」って、まさに金子さんが最初におっしゃってた頑張りたい子のところとつながると思うんです。例えば集中したいなと思ったら、どんなふうに集中するか。自分の空間で集中したいのか。騒がしい中ででも集中できるようになりたいのか。じゃあどんなふうに?と考えていく。
大人が「あなたにはこういう合理的配慮が必要だよ」と決めるのではなく、対話で一緒に作っていく。頑張りたい気持ちと、今は頑張りたくないという気持ちの折り合いを、その子中心に決めていく視点が大切だと思います。
しんどいことをしんどいと言える関係性が大切だと感じています。大人とこどもという関係ではなく、対1人の人間として関わっていきたいと思っています。
「邪魔しない」というのもけっこう大切な気がします… 大人が「楽しくしてあげよう」としなくても、子どもたちは「楽しい」を見つける天才だと感じます。大人が用意しなくても、上手に見つけて遊びますよね。

金子 私が出したテーマ④は、学ぶペースなどにも関連するのですが、「子どもの権利と権利のぶつかり合い」についてです。これまでは主に子どもと大人の権利がぶつかった時の話が多かったと思うのですが、子どもの権利と子どもの権利がぶつかった時は、どんな風に捉えたらいいでしょうか。
きしもと 学童では遊びの中で、自分の権利と相手の権利、自分の欲求と相手の欲求の両方を成立させる術を身に付けていくと言われているんですよね。
どちらかが負けるカードのぶつかり合いではなく、お互いが尊重される方法をお互いで決めることが権利尊重です。一方は騒ぎたい、もう一方は集中したいという場合に「あなたは我慢しなさい。こっちの権利が優先です」ではなく、「あなたは今騒ぎたいかもしれないけれど、あなたが騒ぎたいということを保障することで、周りの子の権利が保障されなくなったら、それはどちらかが我慢しているということになるよ」と。
そして、なぜ騒ぎたいのかを掘り下げ、その欲求を別の方法で満たせないか対話する。そこで「ここぐらいまでは頑張ってみようかな」と自ら折り合いのつけ方を身につけていく。戦わせるのではなく、お互いの権利が守られるための秩序を、対話の中で作っていくんです。
本来は、自分の権利も相手の権利も守られるために、どういうルールを作るかということが秩序なわけじゃないですか。そのためのルールだと思えば、「自分が守られるためのルールだから、自分も守ろう」と、きっとなっていく。自分が尊重されるからこそ、相手を尊重するようになる。
「尊重しなさいよ」で身につくものではなく、それこそ生活の中で身についていくものだと思います。
齋藤 僕は不登校でしんどくなってる子をたくさん見ているので、権利と権利がぶつかってすぐには解決できなくても、それはそれでいいくらいの気持ちで見守るスタンスです。「絶対解決しましょう」「君と君はぶつかってるから、対話しなさいね」もまた、しんどいから。
一緒に整理して、お互いの権利の見える化をしてあげれば、なるほど確かにそういう権利があるかって、子どもたちにも伝わるかもしれない。そういう仕組みがあるといいのかな。
きしもと 今話している3人でも、価値観は違いますからね。現場でも家庭でも、子どもたち同士でも、会話が必要ですよね。
遊びの中で合意形成の力をつけていくの、大切だと共感します。
対話で折り合い付けるスキルって大切ですよね〜。意見が対立した時がチャンスなのかも。
権利と権利はぶつかるもんだ、を前提に、「どう両立させるか」を擦り合わせて対話していくことの具体的なイメージを広めなきゃと思っています。
子どもの権利についての学びを子どもたち同士で学べる時間があると本当によいと思います。
金子 私のしんどさの一つは、自分でどうにかしようとしてるところにあったのかもしれません。子どもたちの声や意見を聞くことが必要だと考えていたのだけど、まずは子どもたちの「ビュー」を拾い上げ、一緒に良い生活をしたいと思って見てくれている存在が、子どもたちの中にもいると感じることが、私のしんどさを軽くしてくれるヒントになりそうです。その子どもたちのビューを、どうやって拾っていったらいいのかという部分を、これから考えていきたいです。
きしもと 色々なことを感じて考えている子どもたちの思いを、言葉を選びながら丁寧に受け止め、また言葉にしていくことが、子どもたちにとって大きな助けになるだろうと感じます。そういうこと…色々なことを感じて考えているということを、僕もしていきたいと思うし。
だって「じゃあ最後に主張を言いましょう」って言っても、多分出てこないですよ。「なんか色々考えましたね」で終わるのも、いいなと思う今日の時間でした。
その子が「自分で決める」ということが大前提のコミュニティや社会で、子どもにもそれが当然のこととして入ってたら、先生もそんなに悩まずにアドバイスしたり自分の意見を言ったりできるのかも。
冒頭紹介してくださっていた漫画の中にもありましたが、子どもが今何に幸せを感じているのか、今の幸せの積み重ねの先にしか子どもの将来の幸せはないんじゃないかと思っています。子どもの今の幸せに、何が一番必要でしょうかという、すり合わせが必要なのかなと思っています。
こどもが安心して過ごせるように選択肢を増やしていきたい。居場所だったり、できること、こどものつぶやきをひろいながら。
このような対話が非常に大切で、日常的に対話される環境づくりが大事だと思いました、学校でも家庭でも地域でも